【手紙本文】
謹啓
風の噂に聞くところによれば、街の広場にある銀杏の木も、ようやく黄金色の装いを整え始めたとのこと。皆様におかれましては、いかがお過ごしでしょうか。私がこの街を離れる決意をしてから、早いもので三ヶ月が経とうとしています。
思えば、私の人生は常に「時間」と共にありました。街のシンボルである時計台の保守点検を、父の代から数えて五十年にわたり続けてきたことは、私のささやかな自慢でもあります。時計の針が刻む一秒一秒は、私にとっては単なる数字の連続ではなく、この街に住む人々の鼓動そのものでした。
さて、今回筆を執ったのは、私の所有するいくつかの品々の行方について、整理がついたことを報告するためです。しかしその前に、少しだけ私の古い記憶に付き合っていただけないでしょうか。
まず、私が幼少期を過ごした家のことを思い出します。その家は、街の「西」側に位置する古いレンガ造りの建物でした。夕暮れ時になると、窓から差し込む赤い光がリビングの床を染め上げたものです。あの光の色は、まるで熟した「ザクロ」のようでした。母はよくその窓辺で刺繍をしておりましたが、今でも目を閉じると、針が布を突き抜ける微かな音が聞こえてくるようです。
中等部へ進学した頃の私は、天文学に没頭しておりました。夜な夜な屋根裏部屋に忍び込み、望遠鏡で夜空を眺めていたものです。当時の私の宝物は、叔父から譲り受けた「三」つのレンズを持つ古い望遠鏡でした。叔父はいつも「三つの視点を持つことが、真実に近づく唯一の道だ」と口癖のように言っていました。当時の私にはその意味が分かりませんでしたが、時計の歯車が噛み合う音を聞くうちに、ようやくその言葉の重みが理解できるようになった気がします。
時計台の内部についても、少しお話ししておきましょう。あの中には、一般の方々が目にすることのない複雑な機構が隠されています。例えば、主軸を支えるベアリングの数は、私が就任した当初は全部で「十」個ありました。その後、摩耗により交換を余儀なくされましたが、あの重厚な金属の擦れる音こそが、時計台の「声」だったのです。
また、忘れられないのは、二十年前の記録的な大雪の日のことです。街中の時計が止まってしまうのではないかと危惧されましたが、私は一晩中、時計塔の「六」階にある小部屋に籠もり、油を注ぎ続けました。指先の感覚がなくなるほどの極寒の中、私の心を温めてくれたのは、妻が差し入れてくれた熱いココアと、彼女が愛用していた「青い」マフラーでした。あの青は、深い海の底のような、吸い込まれるような色をしていました。
時計台から街を見渡すと、さまざまな景色が見えてきます。特に、広場の中央にある噴水。あの噴水の縁には、全部で「二」体の天使の像が鎮座しています。一方は東を向き、もう一方は西を向いている。彼らが何を語り合っているのか、想像するだけで午後のティータイムが潰れてしまうほどでした。
話は変わりますが、私の書斎にある古い金庫について、何人かの方から問い合わせをいただきました。あの中には大したものは入っておりません。ただ、私が長年収集してきた世界各地の切手と、いくつかの古い鍵があるだけです。その鍵のうちの一つは、かつてこの街に存在した「図書館」の裏口のものですが、今はもう建物自体が取り壊されてしまいましたから、ただの鉄の塊に過ぎません。
人生の終着点について考えるとき、私はいつも、あの「白い」砂浜を思い浮かべます。それは私が青年時代に旅した、南の国の小さな島の記憶です。波打ち際に座っていると、自分が時計の針の一部になったかのような、奇妙な一体感を覚えるのです。砂粒の一つ一つが、過ぎ去った時間のように指の間からこぼれ落ちていく。
最近、私の体調を心配してくださる声も届いておりますが、どうぞご安心ください。私は今、非常に穏やかな気持ちでいます。最後に、私が大切にしていた「四」冊の日記帳について書き残しておきます。それらは、私の人生の春夏秋冬を綴ったものです。もし興味がある方がいれば、私が最後に立ち寄る場所に置いておくことにしましょう。
その場所は、私が最も信頼していた友人が守っている場所です。彼はいつも「北」の風が吹く頃になると、古びた「本」を抱えて私の元を訪ねてくれました。彼との議論は、時に夜を徹して行われ、私たちは時間の概念について、あるいは存在の証明について、言葉を尽くしました。
そろそろ、ペンを置く時間のようです。時計の針が、私に次の場所へ行くよう促しています。私が最後に手にするのは、あの日の妻のような「黄色い」ハンカチかもしれません。
皆様のこれからの時間が、光り輝くものでありますよう。
敬具
アーノルド・クロックウェイ


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